夜のドメイン評論ブログ

店舗ドメインを切り口に、多様な風俗文化と愛を語ります。

番外編:僕はチャイエスに生かされている。

エリートにありがちな嘘ばかり吐いている

26歳素人童貞のブログ で有名になった風俗友達である「素人童貞」にそう言われたとき、僕は少しだけ動揺しながらも内心は同意の念と共に安心していた。素人童貞と僕は渋谷明治通り沿いの焼肉店にいた。カウンター席で横並びに座る彼は、僕の奢りの焼肉を僕以上のペースで食べながら淡々と続けた。

チャイエスの話をしているときだけ、本当のことを言っている

この人に頭で考えた戯れ言は通じないのだろうなと僕は思い始めていた。19歳の頃から風俗には通っているので、頭で理解させるための風俗理論武装はいくらでもパターンがある。一方でその実、中国人女性がエステ施術をしてくれる「チャイエス(チャイニーズエステ店)」に救われて何とか生きている。彼にはそれが見抜かれているようだった。今日はそういった話を書きたい。


自分語りをしたいと思う。

僕は28歳の会社員だ。ここでエリートの定義を明確にはしないが、自分のスペックは安っぽくエリート的だとは思う。祖父は会社を起して納税額が某県トップだと表彰されていたし、父は世界的メーカーの国際営業や現地法人社長として年収数千万円を貰っていた。僕自身も帰国子女であり、アメリカの現地中学校では複数科目を飛び級しながら全科目オールAを取得して卒業式で表彰された。また読書が趣味で数学が得意だったため、日本の高校入試模試では全国総合1位を連取したこともある。一流大学・大学院・企業とストレートに進んできた。

高校生の頃には大学生の彼女を相手に童貞を卒業した。相手の女子大生は彼女の通う大学のミスキャンパスに選ばれていた。高校生にしてミスキャンパスの彼女がいる、という時点で全国トップ級のモテ具合だと自負していた。彼女は当時から大好きだったインターネットで知り合った女性だったが、当時はまだ珍しかったのと彼女が異常に可愛い女性だったため、大手女性向けファッション誌の「ネットで知り合ったカップル特集」に掲載されたこともある。

放任主義の家庭に育ち、何かを窮屈に思うことも、不自由に思うこともなかった(放任主義すぎて例えば実姉はドラッグに溺れるような人間に育ってしまった)。自分の周囲には同じように恵まれた(?)境遇の人間が何人もいたが、彼らも含めて、自分自身も、必ずしも幸せに生きてこれたとは感じていない。他人には他人なりの幸せがあって、想像もできない不幸があるのだ。


チャイエスについて書きたいと思う。

人生で辛いと感じると、僕はチャイエスに行く。先に話した素人童貞からの指摘を一通り受けた後、僕はボソっと呟いていた。「このあとチャイエスいこ」と(実際に行った)。チャイエスの良さを理屈で説明することもできる。むしろいつもはそうやって説明している。コスパが良いだとか、異国感が非日常性を感じさせて良いだとか、中国大陸の女性は脚の骨格が良いだとか。でもそんなのは全部嘘なのだ。自分はチャイエスでしか救われないという確信がある。

こういう看板を路上で見たことがあると思う。誰が入るのだろう、こういうのって犯罪じゃないの、どうせ酔客をターゲットにしたぼったくり店なのでしょう、そういった意見が一般的かと思う。こういったお店がチャイエスである。そして僕はこういったお店に真顔で電話をしてふつうに料金を払って施術を受ける。風俗と違ってプレイをするのではない。あくまで施術を受けるのである。

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この店内で何がおこなわれるのか。あくまで僕が受けるチャイエスのリアリティを書きたいと思う。


チャイエスは社会に属さない。

僕らは社会に生きている。僕はそれに耐えることができない。ハッキリとできないという。僕は似非エリートだからだ。本当に育ちの良い人間ではないし、家族だって褒められたような人間じゃない。勿論僕自身もだ。半端な肩書きを得てしまったが、本質的には錦糸町や池袋にいる銭湯と風俗が好きな独身アラフォー男性に強いシンパシーを感じている。それだけが本音だ。社会からの評価はいつだって的外れで、しかもそれは半端なものであって、僕の自意識は蚊帳の外にある。

チャイエスは社会から隔絶されている。都心の駅前においてはチャイエスはコンビニと同じくらいある。そういった調査記事をいつか書いても良いと思うくらい、本当に多くのチャイエスがある。コンビニ感覚で「救いの場」、RPGでいう「HP全回復スポット」があったとしたら、最高じゃないだろうか。実は僕が生きている世界はそういった世界である。コンビニ感覚で救済スポットが存在するのだ。

チャイエスにおいては社会のルールは通用しない。分かりやすく通用していないので時折摘発が入って普通にお店がなくなる。端的にいえば違法と見做され得る行為がおこなわれる店舗が存在する。僕らは生まれたときから誰かがどうにか決めたルールに則って生きているが、さすがに何十年も生きていれば、僕ら自身の意思を持つ。なぜ常に意思よりもルールが優先されるのか。理解できなくなったとき、僕は無法地帯のチャイエスに行く。

チャイエスの特徴として、言語性に触れないといけない。チャイエスに連れていく友人によく言われるのが「日本語がロクに通じなくて何が楽しいのか分からなかった」というものだ。ちょっと待ってほしい。言語で何が伝わっているのだろう。言語を信用しすぎてはいないだろうか。社会が言語をベースに回っている事実に僕は耐えられない。僕はよく泣く。誰かのオーラ(気)を感じることが好きだ。世界には言葉以上にメッセージ性のある笑顔があって、言葉を台無しにする行動がある。

ルールと言語を否定するために、僕はチャイエスに行く。


チャイエスは受身の店舗形態だ。

僕らは審判を待つ立場でしかない。熱めのシャワーを温度確認などなく一気にかけられる。髪の襟足なんかは余裕で濡らされる。痛いくらい雑に身体を洗われる。でも顔に水滴が付いていると、チャイエス嬢は雑だけれども僕の顔をタオルで拭き取ってくれる。そういったアクションをただただ受けるにあたって、言葉は必要としない。むしろ邪魔だ。下手な言葉を紡ごうとしないでほしい。心地好いならハグしてほしいし、切ないなら泣けば良い。

チャイエスにはリアルしかない。僕はチャイエスで3歳児くらいの言葉を喋る。チャイ嬢がカタコトの日本語で喋ってくれるという環境に託つけて、「ありがとう」「きもちいい」「あったかい」「ん」「あ」「うん」くらいしか喋らない。それだけで充分であるだけでなく、それだけの方がよりリアルである、ということだ。敬語を使ったり、気持ちよさを説明したり、共通の話題を見つけたり、そういった言葉はすべて嘘だ。全く質量を持たない社会性の象徴のような虚言だ。

チャイエスはSMに似ている。言語は必要最小限、むしろ最適な数だけで回される。SMもいわゆるSM表現という方言のようなものがあり、そのコンテクストに則った言語体系が存在する。そして僕らはやっぱり心身の安定を求めたチューニングのためにチャイエスに通うしSMをおこなう。特化された言語を用いて、世界のルールとは全く異なったアクション-リアクションを続ける。それは時にハグであって、時に生外出しセックスである。

ナナとカオル」というSM漫画がある。2P分を引用したい。

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チャイエスやSMにおけるリアルとは言語の限界を認めることだ。そして社会一般に適用されるルールではなく、自分たちにチューニングされた世界を開発することだ。僕は2枚目の言葉が好きだ。「気持ちいいは正しい」。これしかないとさえ思う。世界には快と不快しかない。望みもしないのに生まれ落ちてしまった僕らなのだから、せめて快だけに満たされて生きたい。

気持ちいいは正しい。これ以上の言葉は不要であるばかりでなく冗長でしかない。理屈なんか要らない。僕は夜が明けるのが怖い。チャイエスは終電過ぎでも普通に営業しているので、僕は飲み会が終わって解散してからよく一人でチャイエスに行く。なぜ今日という一日を生きたのか分からない。分かる訳がない。明日が来るのが怖い。眠くなるまでの時間が怖い。

チャイエスは時間を潰してくれる。社会(ルール)の外で潰してくれる。嘘の言葉は必要とされない。気持ちよさだけを求めてよい。センチメンタルな夜に、まるで朝が来るまでの時間を浪費することが目的であるかのように、どうしようもない文章を紡いでしまった。

……。なんだか、少しだけ辛くなってきた。


夜明け前、またチャイエスに走り出していた。